私は芭蕉 時には西行 たまに人麿 毎夕?旅人
2012/01/06

2012.01.06          三代沢信寿
<私は芭蕉、時には西行、たまに人麿、毎夕?旅人>     
いつ、どこで買ったかも忘れた、黒く塗られた桐の小箱。
中は二つに仕切られていて、「百人一首」のカルタ札200枚が入っているはずだ。
子供の頃の正月には、「百人一首」のカルタとりが、行事の中に組み込まれていた。
だから骨董屋で見つけた時には、和歌は数首しか思い出せなかったが、その総数である100首は当然揃っていると、そう思っていた。
持ち帰ってすぐに、どちらかが足りないことに気がついた。並べてみると、文字札と絵札の高さが違うのだ。やがて、どちらの札も足りないことに気がつくのだが、すでにその時点で、それはもうどうでもいいことで、それよりも、手描きの草書体が読めない自分に腹を立てていた。
懐かしさだけではない、何かしら、尊敬の念のようなものを、カルタ札の中に感じていた。それは文字で書いた歌のせいで、松飾りや、鏡餅をお供えする習慣を手抜きしても、正月の設えに、黒い小箱を取り出すことを続けてきたのは、美しい歌が惹きつけるのだろう。同じような思は、和紙にも感じていて、手漉きの白い和紙の束が、「百人一首」の隣に毎年並ぶのだ。
3年近く前、思い立って自作の百人一首を作ることにした。
万葉集、新古今和歌集は道半ば。
「験なし物を思はずは 一杯の濁れる酒を 飲むべくあるらし」 大伴旅人
(かいのないことなど思い悩まないで、一盃の濁り酒を飲むのがいいだろう)

松尾芭蕉はここ伊賀生まれ。もし彼が生きていたら、口にしたかもしれない野菜、果物、酒、菓子、魚貝類に、彼が詠んだ俳句を、こじつけで組み合わせた平面作品も700句に近づいた。
キンカンと二枚貝の緋オウギ貝はいただきもの。
柿は我が家で大豊作。甘柿、渋柿含めて800個ほど実り、猿に150個ほど持っていかれた。



<平安貴族の屋敷跡>
2011/12/09

2011.12.09
<平安貴族の屋敷跡>           三代沢信寿
平安時代前期の右大臣、藤原良相(ふじわらのよしみ)の邸宅跡が見つかり、「三条院釣殿高坏」と記された墨書土器が出土したのが決め手となったと、今朝の新聞は報じていた。
1200年程まえに書かれた文字と、池の底という悪条件の中でも色褪せなかった墨の存在を嬉しく思う。
藤原良相を検索すると813年に生まれ、867年に亡くなったようだ。
私が進めている「三代沢版 新古今和歌集」は、全体の半分近く、880首になった。
出来上がったその中から、誰が同時代を生きたかを調べると、在原業平が浮かび上がった。
そこで久しぶりに文庫本の「伊勢物語」開いた。
一つの新聞記事から、歴史をひも解く想像の世界に入り込み、もう半日が過ぎようとしている。

2011.07.29
2011/07/29

2011.07.29
<新しいマイペット>         三代沢信寿
今年の6月も、パリのアパートで過ごす予定だった。
昨年より期間を延ばして、40日間滞在する計画を立てていたが、大震災の報を受けて、私だけキャンセルした。
当時は、この先どのような展開をするのか予測できなかったし、こちらに避難をしてくる人があるかもしれないとか、この地の食料を供給する後方支援というような、何か、役に立つことがあるだろうと思ったからだ。HARUKOは一人で旅立った。
ふと、一人住まいのこの期間を、民宿をやり、その収益を義捐金にしようと考えた。
レパートリーは狭いものの、手打ちそば、炭火での焼き鳥、手打ちパスタなど、特徴のある持ち札?はあるし、ご飯に、味噌汁、浅漬けでの朝食はお手の物だ。食器、寝具は民宿並にそろっている。
三人の人に、料金は相談の上でと声をかけ、そのうちの一人から、自分の会社の研修に使いたい、人数は数人になるだろうとの返事をもらった。結局やってこなかったが。
四人目の人には、それほど親しい間柄ではなかったので料金のことは言わなかった。が、私の作品をお買い上げになったら、寄付するつもりでいた。
三人でやってきて三泊した。喜んで帰っていったが、もくろみは外れた。
アトリエの軒下で仕事をしていると、丸々とした大きな蜂が、頭の上を、羽音もにぎやかに飛び回っている。屋根を支えている軒垂木の木口に止まると、自分で開けた穴の中にもぐりこんだ。
もう、2〜3年前から同じ穴を巣としている。気をつけて見ると、その隣その隣と、5箇所に穴を開けようとした形跡があり、1箇所は立派な巣になっている。別荘を作ったのだ。
「新しいマイペットに名前をつけたよ。クマ蜂は軒垂木が好きなので、「垂木好き」「タルキ好き」。クマ蜂の「タルキスキー」はどうだろうか?アニメ映画で怖がられているクマ蜂は、実は温厚な蜂で、人間に全然興味を示さない。」
「こちらは今、朝の7時半。例によって近くの教会の鐘が15分おきに鳴っています。
前に来た時に修復作業をしていたサンシュルピス寺院がすっかりきれいになって、威風堂々としたなかに、優雅な姿を誇っています。映画「ダヴィンチコード」で映っていたあの教会です。
前は、工事中だったので外から見るだけだったでしょう?
中に入ったら、天井はとてつもなく高く、ステンドグラスは、ノートルダム寺院とは違った、趣のある美しさでした。プロテスタントの教会ですから、見た目も違います。
「タルキスキー」は今までで一番、しかし、「トビ蜘蛛」の「アイコン」はもう一度考えたほうがいいよ。
庭の中に、大きな宇宙を見出しながら楽しんでいる様子がわかりますが、せっかく、キャンセルしたのだから、しっかり日本の被災地に貢献してください」
パソコンのスイッチを入れたら、画面に見慣れぬアイコンが。それをクリックしたら、画面の外に飛び出した。「トビ蜘蛛」だった。
「料理教室の生徒のヨリちゃんに電話をして、配達の仕事の足を、大和郡山まで伸ばしてもらい、金魚を買ってきてもらったよ。前のメールでは100匹1000円と言ったけれど、調べ直したら100匹800円というのがあった。前の池に94匹放し、石臼に6匹放した。名前は「ハチキン」。「八金魚」の「ハチ金」ではなく、「八円均一」の「八均」。
「イチマル八」「108」も考えているがどう?」
「近くのボンマルシェも一ヶ月に一度の、ショーウインドの飾り付けをしています。
今月はブルーのスコップのようなものが、いろいろな表現でディスプレイされています。買い物意欲を、これでしっかり掘り起こすという意図かもしれません。美しい!
「消費しましょう」とキャンペーンを張って、それを連呼したり、あおったりする、どこかの国と違って、上品で、やり方が私の好みです。
近くのケーキ屋さんで、ちょっとしたお菓子を買いました。
小さなロールチョコ。中にはミニシュークリームが3つ。アートのようなお菓子とディスプレイです。どこでも、ケーキはそれはそれは美しく、おいしいのに安いのです。
てさげ袋に入れてくれたので、帰ってから袋から出したら、紐のかけ方がおしゃれで、しかもさらに開いてびっくり!
大き目の箱に、どのように入っているかと思ったら、包装紙と同じピンク色の、プラスチックのピン4本を、ケーキの周囲に刺して、動かないようにしてある。
感動!もったいなくて、まだ食べていません。
金魚の名前は、以前は「わずかに」だったわね。白鷺にほとんど食べられて、わずかに4匹残ったから、「わずかに」だったようだけれど、もうひとひねりしないとね」
朱色の花を咲かせる「緋扇水仙」が終わりに近づくと、オレンジ色の鬼ユリが下から上に段々と咲き上がっていく。
石臼の中に放した金魚は、その後3匹が死んだ。
その石臼の縁に、トノサマガエルが、どんなもんだい、と昂然と胸を張って前方をにらみつけている。
先月、補虫網でつかまえて、300メートル先の田んぼに放してきたやつだ。帰ってくるのに、3週間ほどかかった。いつもよりも一週間ほど遅かったのには、何か訳があるのだろう。聞いてみようと、もう一歩近づくと、背丈が伸びたハーブの茂みに飛び跳ねた。
名前は今まで「トノ」だったが「ドンナモンダイ」はどうだろうか?
メールを打とうとしたが、考えてみると、今ごろ飛行機は、ロシアの上空を飛んでいるはずだ。


美しい雨
2011/05/10

2011.05.10
<美しい雨>     三代沢信寿
予報どおりに、正午過ぎから降り出した雨は、細く、長く、静かに、木々の緑を洗い出している。研ぎ出しているといったほうがいいかもしれない。研ぎだし蒔絵に使う、墨の役目を、雨がかわりにやっているのだ。
柿、桜、つつじ、山椒、ふき、オニユリなどの、それぞれの緑色に加えて、おびただしい数の緑色が広がった庭は、まさに五月という月の、全ての緑絵の具をしぼり出したパレットのようだ。
その中に、ムシカリの白い花と、紅葉と見間違えるカエデの赤い葉が、鮮やかに、違和感なく緑の中に浮き上がっている。それぞれが、種の保存のためにやっているだけなのに、協調して、風景を形作っているように見える。実に不思議だ。
外ペットのスズメが3羽、餌をねだりにきて、窓の外でそわそわとしている。
そんなこんなの、ごく普通と思われてきた日常の一こまが、あの2ヶ月前の大震災以来、実に尊いものに思えてくる。
松尾芭蕉の俳句1066句を、野菜、果物に添わせて平面作品にする作業を始めて2年余。
513句まですすめた。
彼が歩いた「奥の細道」の道筋が、今回の大震災と重なっていることにも、心は痛むばかりだ。
軒下に吊り下げた竹の花器に、4月は桜を、今月に入って、モッコウバラを、そしてナルコユリを活けた。亡くなった方々への、献花の気持ちを込めている。

<モグラの花丸>
2011/01/02

2011.01.02 <モグラの花丸>   三代沢信寿
パソコンに向かっていた、12月の半ばのある朝、ふと庭に目を向けると、庭石の脇の水仙の葉が動いていた。
目を凝らしてみると、その動きが止まったので、気のせいかと思って、作業を続けていた。しかし、気になっているので、右目じりの先へ、数分おきに、視線は走っていた。
確かに、水仙が少し持ち上がったようだ。
そこでじっと見つめる。しかし、何の変化もない。
「ダルマさんがころんだ」といって振り返る、子供の頃の遊びをやることになった。
ひょっとすると、アイツかなと思ったからだ。
はっきりと土が動いた。
私は、空を飛ぶ「飛ぶペット」、地面を歩く「歩きペット」、モグラのように潜っている「地中ペット」、闇夜にまたたく「星ペット」、植物や石のように、動くことが出来ない、「不動ペット」と、5種類の外ペットとつきあっている。
アイツというのは、モグラの「花丸」だ。
久しぶりに「地中ペット」の顔を見てみようという気になった。
庭に出て、水道の栓を少しひねり、ホースの先を、水仙の根元に差し込んだ。
多少気がとがめたが、モグラを見たことのないHARUKOに、見せてやりたいという気持ちがあった。
しかし、喜ぶ半面、動物虐待という、非難の声も覚悟しなければならないので、早く顔を出さないかと、やきもきしていた。
以前、同じやりかたで、すぐに「花丸」はピンクの鼻先を出したからだ。
水はもう1トンは入っただろう。
あきらめることにした。
数日後、玄関近くの、飛び石の近くに、こんもりとした、新しい土の小山を見つけた。
生きていた安心感と、水仙から、5メートルも離れたところにまで、トンネルを掘った「花丸」に、ますます会いたくなった。
日ごろ、動物愛護を口にしている私にとって、これは、かなり矛盾した行為なのだが、またもや、新しい土の小山に、ホースを差し込んだ。
2トンの水が流し込まれた。「花丸」は姿をあらわさない。死んでしまったのだろうか?
大晦日の朝から降り始めた雪は、元旦の朝には、15センチほどになっていた。
晴れ渡った空の下で、金木犀の枝は、雪の重みに、耐えかねている表情を見せ、南天の木は、今にも折れそうなほど、頭を垂れている。
雪は、その日の夕方には、半分ほど融けた。
夕方、駐車場に行こうとして、ふと見ると、門の脇の、柿の木の近くに、新しい土の小山があった。「花丸」は生きていた!
3トンの水がアタマをかすめたが、顔を見るのは、春の終わりまで伸ばすことにしよう。

<日本自炊団>
2010/12/21

2010.12.21
<日本自炊団>      三代沢信寿
アクセサリーの展示会の会期中、作者のIさんは、「クラバー亭」と名づけた蔵を、自分の寝るところに選んだ。
外の景色がよく見える、二階の座敷や、裏の畠を見下ろせる、北側の小部屋を気に入った時期もあったが、このところ、「クラバー亭」が彼女の定宿?になった。
昨年の、ガラス展の作家は、「ウチに来ませんか?」とオープニングパーティーに訪れた来客を、蔵の二階に誘った。
立つと頭がつかえる狭い空間に、10人あまりが寄り添って、二次会を楽しんだ。
来客には、自分で寝るところを決めてもらっているので、別棟の蔵を選択した人は、自分の家という感覚になるようだ。
アクセサリー展の会期は6日間だったが、Iさんは12日間滞在し、料理教室の生徒と旧交を暖め、喜んで帰っていった。
後日、女王さまの待遇で、体重が1.5キロ増えたと、電話で話していたので、そのうちの300グラムくらいは、私に関係があるのだろう。
というのは、HARUKOが東京に出張していた数日間は、日本自炊団の団長が、三度三度食事を作っていたからだ。
ある日の夕食の献立
大きなカブを、六等分して、厚く皮をむき、鶏ガラのスープでゆっくり煮込む。
さて、何で味付けをしようか?
冷蔵庫を開けると、頂き物と思われる桑名の「アサリのしぐれ煮」を見つけた。一粒、味見をした上で、全量を鍋に入れた。煮込むこと30〜40分、カブの下半身が、ほどよく色づいた。カブは和食、洋食、いずれにも使えるすぐれものだ。
その翌日の献立
風呂吹き大根用に、じっくり茹でた太物を4個、六角形に切り落とす。
上から見ると、星型になる。オリーブオイルを、大さじ3杯ほどフライパンに入れ、ニンニクをひとかけら加えて、弱火で香りを取り出す。
水気を切った星型の大根をフライパンに並べ、八つの切り口を、色づくまで炒める。
ソースは何にしようか?
冷蔵庫の扉を開ける。福岡から届いた明太子の箱が目に入った。三種類の中から、イカの明太子を選び、ちょっぴり食べてみる。やはり辛い。
この辛さに、甘みをぶっつけてみよう。
冷蔵庫の奥にある、変ったデザインのガラス瓶は何?
今月の料理教室に登場した、粒マスタード、マヨネーズ、蜂蜜をミックスしたHARUKO特製の、「ハニーマスタード」だ。これに決めた。
細めのパスタ(1.4ミリ)をアルデンテに茹で、大根を取り出したフライパンで軽く炒める。
さて盛り付けだ。
皿の中央に、星型大根を2個並べ、イカの明太子ハニーマスタード和えを載せる。
両脇にスイスチャード(西洋ふだん草)の美しい大きな葉を敷き、渦巻き星雲を念頭に置きながらパスタを盛る。
今日のワインは何がいいだろうか?Iさんに選んでもらうことにしよう。







<遊泳竹 浮動音花入れ>
2010/12/07

2010.12.07
<遊泳竹 浮動音花入れ>        三代沢信寿
知り合いの人から、はがきが届いた。この季節は年賀欠礼の挨拶が多いので、それかと思って裏を返すと、花の展覧会の案内状だった。
本能寺を冠した、初めて目にする流派だった。
年に一度の発表会で、最終日には終日会場にいます、ぜひどうぞと書き添えてあった。
非業の死をとげた織田信長ゆかりの寺と、流派とはどんなつながりがあるのだろうか?
知り合いの人といったけれど、ここのギャラリーでの展示会によくお見えになる方、つまり、お客さんからの、お誘いということで、義理も多少はあったものの、信長に惹かれたからというのが当初の気持ちだった。
最終日は、強い風が吹き荒れる日曜日だった。
車を走らせるうちに、信長から反旗を翻した明智光秀のほうに関心が移っていった。
というのは、松尾芭蕉の「月さびよ明智の妻の話せむ」の一句を思い出したからだ。
芭蕉は、「奥の細道」の旅を終えたあと、伊勢の遷宮に参拝し、焦門のひとり島崎又幻(ゆうげん)宅に止宿したようだ。
又幻はその時、19歳、伊勢神宮をめぐる神職間の争いに敗れて、貧窮の暮らしをしていたにもかかわらず、夫婦共々、芭蕉を温かくもてなした。
このことに心を打たれた芭蕉が、明智光秀が貧しかった頃、連歌の会を開催する費用がなく落胆していたところ、彼の妻が髪を切って売り、その費用を工面したという話を書き贈ったとのこと。
その光秀は、わずか13日で豊臣秀吉に破れ、落ちのびていくところを農民に殺され、悲運の一生を終える。
歴史に語られた、栄枯盛衰の断片に背中を押されながら、ホテルの駐車場に車を乗り入れた。駐車スペースを探して、一番奥まったところに車を止めたので、正面玄関まで足をのばさず、脇の入口から入ることになった。強い風から逃れる気持ちもあった。
つまり、展示してある活け花会場の、アタマではなくシッポから見ることになったようだ。
二階に上がり、一通り見終わってから振り返ると、はがきの差出人であるMさんの、着物姿が話をしていた。
出品者は着物姿と思えばいい、と つまらぬことに納得しながら、Mさんに声をかけた。びっくりした声が返ってきた。
この流派の特徴を尋ねたが、はっきりわからないようで、次の代を担うと思われる、若い人を紹介された。若宗匠と私は覚えることにした。
若宗匠の話では、流派の元は池坊で、そこを飛び出して新しい流派を築いたとのことだった。飛び出したきっかけが何か聞きそびれたが、そのときの決意の程は、なみなみならぬものがあったことだろう。
師の志は、末に広がった後の世の、これらの作品の中に込められているはずだ。
かつて東京で、池坊展を見たことがあるが、それとの差異はどこにあるのだろうか?
考えながら、池坊という言葉が出たので、私も「信の坊」という流派を名乗っています と若宗匠に話しかけた。
若宗匠は、真面目な声で受け答えをしたが、Mさんは笑いをこらえながら頷いているように見える。私は、自分でも驚くほど饒舌に、「信の坊」の竹製花器についてしゃべったが、どれほど理解してもらえたかはわからない。
Mさんの含み笑いと一緒に、記帳台へと案内された。つまり会場構成からいうと、出発点に来たわけだ。
帰宅してから、これらの話をすると、会場は、自分の話をするところではないでしょうと
諭された。
軒下の竹の花器は、左右に揺すると、ポッタン ポッタンと遊泳音を奏で、聞きようによっては、歴史の栄枯盛衰音にも聞こえてくる。



<こんにゃく財団>
2010/11/30

2010.11.30
<こんにゃく財団>    三代沢信寿
東京からの来客を迎えに、山沿いの近道を駅に向かった。大きな起伏の坂道を、上ったり下りたりするたびに、道端の枯葉が勢いよく舞い上がる。
時々、木々の梢から落ちた、まとまった枯葉が、ボンネットからフロントガラスをすべり、後方へ飛んでいく。
暮れようとする西の空には、淡い夕焼け雲。その下には、無限の距離を思わせる、薄い青色の空。美しい!
初めて我が家にやってくる、若い二人の女性に、この詩的な、初冬風景もお奨めだった。
しかしこの時期、我が家に着く頃には、日もすっかり暮れているはず、第一印象は、世俗的でも心が弾むほうがいい。「明るいコース」をとることにした。
「この地の七不思議」と私が呼んでいるものがあり、そのひとつが、人口10万足らずの伊賀盆地にスーパーマーケットが12あることだ。
最大のものは、1800台分の駐車場があり、大都会と違って無料だ。
このスーパーマーケットを最初に案内すると、たいていの人が、おお!と感嘆の声をあげる。今回も、おお!の声がでた。
文明のまばゆい光の印象は、車が市街地を抜け、田んぼの中を走るうちに、いつか掻き消えていく。
この先に人家はないだろうと思わせる、S字型のカーブを曲がった先の、枯れかけたコスモスに囲まれた駐車場に、車はすべりこんだ。
車を降りると冷たい空気が肌に触れ、見上げると星空。
この前に、星を見たのはいつだったの?自分への問いかけが、田園の闇の中に消えていく。
足音が門の中に入り、我が家の各部屋に設置された、布、和紙、竹、キャンドルの、あかり空間へと誘われる。外見は普通の農家造りだが、内部はアート空間だ。
翌日、旧家のSさん宅に案内した。
田んぼと田んぼの間を約100メートル、ちょうど参道のように、小道が門に続き、門の左右には、石垣の上に土を盛り上げた土塁が連なっている。
石垣の一部は、安納積みと呼ばれる、古式の石積みらしい。
茅葺の母屋、土蔵、2棟の別棟と庭を取り囲むように、ケヤキ、椎などの大木が茂っていて、離れてみると、こんもりとした木々の塊の中に家が建っている。裏手には幅5〜6メートルの掘りがあり、一本の古木が橋のように倒れている。まさに古の砦のたたずまいだ。このあたりで、一番風格のある建築といっていいだろう。
かつて、藤堂藩に仕え、忍者の元締めのような、又、火薬を扱う技能を生かせる仕事をしていたようだ。
ペリーが蒸気船で、浦賀沖にやってきた時も、公用で現地に出向いて調査したとのことが、古文書に記されているとか。
返り際に、こんにゃく作りをすすめられ、4年物の大きな蒟蒻いもと、作り方のレシピを頂いた。
客の帰った翌日、「有悠米」を作っているIさんと一緒に、こんにゃく作りに挑戦した。
農業人のIさんに、米以外の作物として、蒟蒻いもの栽培を薦めたかったからだが、4年も待てない、リスクが大きすぎるという返事だった。
レシピ通りに進めたつもりだが、茹でかたが足りなかったのだろう。すりつぶしても固いところが残るので、蒸すことにした。そのあと、又、すり鉢ですりつぶし凝固剤を入れ、バットに流し込んだが、思うような固さにならない。
一晩待つことにした。
次の日、期待を半分にして指で押さえたが、ぶつぶつの入った寒天状態、熱を加えて、凝固剤をさらに加えた。
網で漉すと、小指の先ほどのこんにゃくと、粘りの効いた液体の、ふたつのものになった。
チビこんにゃくは、「つぶこんにゃく」と名前をつけ、食べてみるとなかなかいける。
蒟蒻いもを仕入れるために、「こんにゃく財団」を立ち上げ、「こんにゃくファンド」で資金を集め、4年後を目指す、とここまでは頭の中で話をすすめてきた。
すると、その前に、「コスモス財団」のお仕事、コスモスの種の採取が先だよという声が、どこからか聞こえてきた。
そうだ、駐車場に急がなければ。




紅葉狩り
2010/11/21

2010.11.21
<紅葉狩り>         三代沢信寿
このあたりの農家は、木造瓦葺き、土壁で作られた二階建ての母屋、納屋、門(長屋門の家もある)、穀物を保存する外蔵、お膳やお椀などの食器、掛け軸、寝具を納めてある内蔵、それらを取り囲むように、瓦を載せた土塀が連なる、それが一軒の単位で、離れてみると、砦のような佇まいだ。
機械化によって、農機具を入れる倉庫も付随しているが、残念だが、それだけは、工場で生産された波板トタンで出来ているものが多い。
無神経に立っている電柱と、工業製品の倉庫を意識の中で取り除けば、建造物は、周囲に広がる田んぼ、里山と響きあって、美しい日本の原風景を形作っている。
納屋を改造したギャラリーで、年に5回ほど作品展を開いている。
11月のバッグ展は、確かな仕事をする革作家のOさんと、彼の愛弟子Nさんとの二人展だった。
会の初日、Oさんが、土間の棚の上に置いてあった、古いトランクを引っ張り出してきた。
Oさんが、ほこりを払ってテーブルの上に置き、蓋を開けた。
それを、どのように手に入れたか、記憶も定かではなく、存在すら忘れていたものだ。
何かが飛び出したわけではない。しかし、破れかけた内張り布の間に見えるボール紙の、粗末な、しかし懐かしい質感は、まさに私の記憶の中に飛び込んできた。
Oさんはトランクを仔細に眺め、材質といい、縫い方の作業量といい、最小限の仕事しかしていない、きっと戦後間もなく作られたものではないかという、専門家の結論を出した。
その夜、ふと、あのトランクを花見や、紅葉狩りをするときに持っていかれるようにならないものかと考え、翌日やってきたOさんに相談した。
私が染めて、縫製をしてもらっている、麻のブルゾンとの交換が条件だったが、彼はすぐに快諾してトランクを持ち帰った。
そういえば、最初に、彼とある展示会で知り合い、ワインを入れるバッグと、ブルゾンを交換したのがきっかけで、長いつきあいになった。
バッグ展は好評で、新顔のNさんにも追加注文があった。
最終日にOさんが、トランクを持ってきた。外は手をつけずに、蓋の内側に、ボトルを入れるところ、ガラスの皿を納めるところを作り、木の皿と弁当箱、ガラスのぐい飲みを入れた皮製の箱は、そっくり取り出せるように作ってきた。宝物がまたひとつ増えた。
先月、墨象画家で織りや編み物をこなすSさんから、女性3人による、展示会のお知らせをもらっていた。我が家のバッグ展と時期が重なっていたが、こちらが2日早く終わるので、最終日に行くことにしていた。
Sさんの編み物、手袋作家のFさん、この二人を結びつけたのは私で、旧知の間柄、もう一人Hさんは、布と糸を使った衣装、アクセサリーで、会ったことのない人だった。
場所は芦ノ湖の近く、女優のHMさんの自邸だった。
ここには、十数年前に、和紙のランチョンマットや、手描きの献立表を持参して、主催者側の一員、仕事として訪れたことがあったが、今回は客として見に行くのんびり旅、箱根の紅葉狩りも楽しもうと思っていた。
木の小型お重にご飯をつめ、真ん中に大きな梅干を一個押し込み、昆布の佃煮をおかず、本来酒を入れるボトルには、お茶を入れた。デザートに和菓子も入れた。
さて何を着ていこうかと考えた末に、自分で3000回?ミシン刺繍をした、15年ものの青系のブルゾンを着て、クロのジーンズをはいた。
1000年前の武人であり、歌人でもあった、源頼政の歌
「狩衣われとは摺らじ露しげき野原の萩のはなにまかせて」
さあ、馬に乗って狩に出かけよう、何を着て行こうか?きっと野原には萩が咲き乱れているだろうから、無地を着て行くことにしよう。朝露に濡れた衣に、萩の花が美しい模様をすりつけてくれるだろうから。
ここで粋なことは、夢にも紅葉の模様の狩衣を、身に着けようと思わないことだ。
愛称ビス、18年ものの、ビスMW(剥げ落ちようとする、車の内張りの布を、数百本のビスで留めている)にまたがり、名阪国道、湾岸道路、東名を沼津でおりて、強風が渦巻く箱根の阪を、騒音を撒き散らしながら登っていった。
きっと早朝だったら、色づいたカエデの濡れ落ち葉が、黒い車のボディーに、美しい模様をつけただろうに。
会場で会った旧知の二人と、親しく話をして、もう一人の作家Hさんを紹介された。
彼女が出品している衣装は、魅力的なバラの花びらの感触、そこで、「今度、女に生まれ変わってくるので、その時は身に着けてみたい」と話をした。
会場に隣接した喫茶室で、持参した「紅葉狩りトランク弁当」を開いた。トランクを提げてきたので、小型お重の中のご飯が端に寄せられて、3センチほどの隙間が開いている。
押されて梅干が窮屈そうだ。
帰路も風は強く、富士山が寒そうだった。
往復600数十キロのドライブを終え、夜の8時頃家に着いた。
その数日後、衣装作家のMさんに手紙を書いた。
「魅力的な作品でした。女に生まれ変わるには、時間がかかりそうなので、ひとつ相談があります。同封の写真は、今は着なくなったホームスパンのブレザーです。これをどのようにしてもいいですから、あなたの感覚で、私の身に着けるようにならないものか?作品との交換で」
投函してから2週間、いまだに返事がない。


私の、パリの空の下
2010/08/16

2010.08.16
<私の、パリの空の下>       三代沢信寿
HARUKOにパリ行きを誘われ、一緒に行くことにした。
パリは、「日本人の団体旅行」として2回行ったことがあるが、新しい視点で経験できれば実現してみたいものだ、それは何だろう?と考え、あることに気がついた。
昨春から、「万葉集」「新古今和歌集」の短歌に、私の抽象的な絵と感覚を加えて、作品としている。千年以上前の短歌を、声に出して詠んだり、歌の解釈をしたりする外に、さて、私に何が出来るだろうか?と考えた末に、思いついたものだ。
千年後の人が、私の作品を、どんな眼差しで眺めるか、それも楽しみなのだが。
「万葉集」は、学生時代に友人から贈られた「万葉名歌」土屋文明著に載っている、300余首に100首位が加わり現在400首ほど、「新古今和歌集」は、最多登場の西行法師を筆頭に15人、630首を形にした。
「百人一首」も作品化したので、古の、天皇を含めた上流階級、一般民衆、その数、数百人、1000首以上が私の心を揺さぶり、私の感覚を突き動かし、パソコンの力を借りてデジタル化し、平面作品となった。
「はがき」サイズに印刷された、それらの作品をバッグに入れ、彼等を伴ってパリに行くことにした。
しかし遠方に行く話なので、それぞれの歌人に都合を聞いてみると、見たこともない国なので、是非ともいってみたいという返事だった。片道9500キロの距離に驚いた人も居たが、73年間の生涯の、三分の二を、旅をしていた西行法師は、軽く頷いただけであった。多くの人とりわけ女性が気にしたことは、パリの気候、というよりも何を着ていったらいいか、ということだった。
最近帰国した人からは、6月だというのに夏のような暑さだったという情報を得ていたが、用心のために、春物を一枚持っていくことをお勧めしておいた。これが、到着してすぐに役に立つことになる。
果たして「花の都パリ」では、なにか見つけられるのだろうか?
出掛けに門の脇を見ると、金木犀の根元に、薄茶色の渦巻きを背負ったカタツムリがいた。
ひょっとしたらこちらにも、と冗談半分で、反対側の柿の木の下を見たら、「茗荷」の茎に、同じ模様が一匹とまっていた。
それなら塀の間際にある山桜にも、と思わないわけではなかったが、電車の時刻が決まっているので、早朝の田園を、駅に向かって車を走らせた。
近鉄大阪線から環状線に乗り換えて、車窓に見えるこまごまとした家々を見ていると、
西暦730年頃の、「難波の都」の風景と一瞬にして入れ替わり、新都造営の長官、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、朗々と誇らしげに自作の歌をうたい始めた。
「昔こそ難波田舎と言われけめ今は都引き都びにけり」
昔、田舎と言われた難波が、都会になりつつあった時の指導者の、自信に満ちた声だった。ところが見回すと、車内の誰にも聞こえていないらしい。
それはそうだ、藤原宇合が「今は」と詠みこんだ「今」は、今から1300年前のことだ。
HARUKOの、窓の外に向けられた嘆かわしい視線、これはきっと都市計画の上に成り立った、石で造られたパリの街並みと、窓の外に見える、無秩序に建てられた木造建築の家並みを比べてのことだが、そのことは周囲の人の誰にもわからない。
電車は関西空港に着いた。
手続きを済ませて出発ロビーから見ると巨大な飛行機が何百人もの人を乗せて、次から次へと飛び立っていく。
「世の中を何にたとへむ朝びらきこぎ去にし船の跡なきごとし」沙彌満誓(さみまんせい)
世の中の動きを例えると、波に刻んだはずの航跡が、あっという間に消え去り、何事もなかったかのようだ。
我々の乗った飛行機も、滑走路に何も残さず飛び立った。
神戸の山を越えて日本海に出るだろうという私の予想に反して、飛行機は瀬戸内海を西へ進んでいるようだ。
昼食のあとで、紫式部と小野小町とどちらが好きか?と何気なくHARUKOに聞くと、源氏物語を少し学んだので、紫式部がいいというので、旅の間彼女を「式部」と呼ぶことにし、私は「西行」にした。なんのことはない、飛行機が西に向かっているから、「西行」を選んだだけだ。
しかも、私の空想世界を、「式部」はまったく知らないのだ。
11時間後、飛行機は、ドゴール空港に着陸した。


      

<お帰り ハヤブサ君>
2010/06/16

2010.06.16
<お帰り!ハヤブサ君>      三代沢信寿
7年の歳月と、60億キロの宇宙の旅を終えて、探査機<ハヤブサ>が帰ってきた。
その前夜、100メートル先の川に行くと、蛍が飛んでいた。川に沿って上流に歩くと、黒い山陰から空に向かって、いくつもの小さな光が舞い上がっている。
そのうちのいくつかは、空の星に紛れ込み、また川に舞い落ちてくる。
我々は、50メートルも離れていないのに、お互いの姿がまるで見えない。
家に入ってから、星と蛍と<ハヤブサ>が、ほぼ等距離で我々の話題にのぼった。
明日、パリに発つ。月末までの二週間、アパート住まいだ。
行くことが決まってから、まず、はいていくズボンにミシン刺繍をした。
すりきれそうなところからはじめ、ジグザグに色を変え、腰をひとまわりした。
次に、履きふるしたグレイのスニーカーに、黒い靴墨をすりこませた。
液状のものと、ペースト状のものを交互に使い、光沢のあるチャコールグレイに仕上げた。
ヘヤーカットに行くついでに「ユニクロ」に立ちより、七分袖のTシャツを、黒が1枚、紫が2枚、仕入れてきた。
帰宅してすぐに、胸と背中に、染めた麻布をデザインして縫いつけた。
Tシャツは、襟ぐりが大きかったので、以前作った短いマフラーを巻くことにした。
色をビビッドにしたかったので、グリーンの染料で染め直した。
松尾芭蕉の俳句と、ここで手に入る野菜、果物を撮影したものを組み合わせて、平面作品を作っている。
パリでも同じように撮影をしようと思ったが、何か一工夫、「パリ」が簡単にわかるものはないかと……….
もう一工夫、アクリル板にも参加してもらって試し撮り。
片道9500キロのかなた、パリの空の下をマイファッションで歩き回ってみよう。
パリジェンヌの反応は?

美しい田園風景
2010/05/23

2010.05.23
<美しい田園風景>      三代沢信寿
先週の週末に、「有悠米」の田植えが広い田んぼで、その一週間後に、「有悠もち米」の田植えが小さな田んぼで行われた。
いずれも、さわやかな微風が水面をなでていく、歌でも唄いたくなる陽気の日だった。
Iさんが乗る、田植え機の動く様子を見ていると、まるで無駄な動きがない。
大きな田んぼでは気がつかなかったが、動きが集約された小さな田んぼでは、あることに気がついた。田植え機の出入りするところは一箇所で、一度植えたところは再び通れない。
植えずに通り過ぎたところの、車輪の跡を消してから、そこに植えるといった、かなり高度な技を織り交ぜながら、進められていく。始と終わりが結ばれた、一筆書きの文字ように私には思えたが、Iさんからは、ただ乗っているだけ、という控えめな言葉がかえってきた。
ちょっとした、小技を使ったくらいにしか考えていない。
田んぼに水が張られ、そこに苗が植えられてはじめて、「水田」が生まれる。
同じ田んぼで、何十年、何百年も作ることができる「米」、多くの人を養うことが出来る「米」が、美しい日本の原風景を形作っている。
見上げる先にヒバリが鳴き、蛙の大合唱。間もなく、田んぼのはずれの小川に蛍が舞い、ギンヤンマ、オニヤンマ、黒アゲハチョウがのびのびと、空に遊ぶ。
秋の収穫の日が待ち遠しい。

<新古今和歌集への旅>
2010/03/18

2010.03.18
<新古今和歌集への旅>       三代沢信寿
朝、洗面所に立つと、裏手の山から鶯の声が聴こえてくる。
2週間前とくらべると、だいぶ上手になったが、気にかかる鳴き声を間に挟む。
「ホーホホヶキョ」と、3〜4度に1回、ホをひとつ余計に加える。
正しく?鳴いてほしい、いや、あれでもいいではないかと頭をめぐらしつつ、しかしいつまでも歯を磨いているわけにいかないので、反対側の、田んぼを見下ろす部屋に移動する。
カーテンに手をかけ、半分開いたところで、門の脇の金木犀がザワザワと動く。と同時に数十羽の雀が、隣の柿の木に飛び移ったり、空中に舞い上がったりする。4〜5羽はガラス窓にぶつかるような勢いで、ホバーリングをして、至近距離でこちらを見ている。餌を催促しているのだ。
カーテンを全開すると、窓の外は、まあ何とたくさんの雀が………….
階下のカーテンを全部開けて、米の入った袋を持って庭に出る。お待ちかねの餌タイム。
ダシをとった後の煮干、サンマの頭は、包丁で細かく刻んで庭にまく。
ツグミやジョウビタキに食べてほしいのだが、入れ替わり立ち代り猫がやってくる。
メス猫の食べている後から、オス猫がいどみかかる。恋の季節だ。
立春を過ぎて「新古今和歌集」をひも解くことにした。
「西行法師」の95首に続いて、「式子内親王」の49首を完成。今日から「藤原定家」の46首にとりかかった。王朝時代の素晴らしい感性を味わっている。

<杉の切り株>
2010/02/28

2010.02.28
<杉の切り株>      三代沢信寿
今月の中旬、「有悠米」の生産者Iさんにも手伝ってもらい、「有悠米のもち米」で餅つきをした。
つきあがった餅は、A4サイズくらいの4個の箱に流し込んだ。厚さは6〜7センチだろう。
少し硬くなってから、箱から取り出し、ビニールの袋に入れ、彩色した和紙に包んだ。
テーブルの上に置いた、和紙に包まれた塊は、まるで金塊のようだ。「金塊餅」と墨書しようかと思ったほどだ。
送り先の、横浜緑小学校では、「バイキング給食」の中に、きなこ餅として登場させ、大好評だったと、栄養教諭のTさんからメールがきた。
餅つきの疲れは、体のあちこちに現れたが、Iさんも同じように、節々が痛くなったと、後日、笑いながら話してくれた。
春一番が吹き荒れ、鶯の鳴き声が、裏山から聴こえてきた。
Iさんが、杉の切り株が田んぼに放棄されているので、いりませんかと声をかけてきた。
山を整理したときに切り出されたもので、樹齢80年以上は経っているということだった。
急峻なところから、横に張り出し、上に伸びたので、年輪の中心が極端に偏っているという話だった。こんな話には、すぐに乗ることにしている。
田んぼの端に転がっている、2メートルほどの杉を、Iさんは、チエンソーを使って、四つに切断した。横に止めてあったトラクターの後部に載せて、田んぼから農道に出た。
この一連の作業は、実に手際よく進み、200メートルほど先の我が家の庭に、4個の杉の椅子が並んだ。いつも思うことだが、お百姓さんは、自分でなんでもやってしまう。何でも出来る、といっても過言ではない。
香りが素晴らしいコーヒーを入れ、杉の切り株の上におくと、小さなテーブルといってもいい姿だ。切り口を見ると、信じられないほど、中心が端のほうにある。
今日、年輪の中心に穴を開け、水仙を活けてみた。
汗ばむような風が吹くと、あちらを向いていた、水仙の花が、くるりとこちらを向いた。


素晴らしい未来へ
2010/01/15

2010.01.15
<素晴らしい未来へ>         三代沢信寿
近所のIさんが、有機肥料、減農薬、そして、太陽の光や風が通りやすいように、稲の株間を空け、田植えの時期も遅らせる、というやりかたで、米作りをはじめた。
精米も、真っ白にしない、7〜8づきを選んだ。食べる人の安心、と稲の健康を考えたからだ。
我々はこの米に「有悠米」と名づけ、応援することにした。
好評のうちに2年目を迎え、嬉しいことに児童数1000人の、横浜の小学校が、学校給食に取り入れてくれることになった。素晴らしい実績を持つ、栄養職員のTさんの選択だ。
昨年末、「有悠米」を食べた子供たちの声が、こちらにもメールで送られてきた。紹介しよう。
5年生
「有悠米は、味が濃くて、後味もおいしかった」
「もっといっぱい食べたいと思いました。はじめて食べたけど、あまりのおいしさにびっくり」
「味がわかりやすくて、少しかためで歯ごたえがあり、とてもおいしかった」
「お米がふっくらしていて、後味がほんのりやわらか、そのままでも、味がついている感じ」
6年生
「甘くて、もちもちしていて、おいしくて、食べやすかった。もう一回食べたい」
「食べた瞬間に、いつものお米とは違う味、食感、香りが口いっぱいに広がりました」
「いつものお米よりもおいしくて、あたたかい感じがした。つるつるしていて、光っていた。見た目はふわふわしていて、少し甘みがあり、よくかんだほうがおいしかった。また食べたい」
「ごはんだけでも、いっぱい食べられた。今までと違う食感で、何回もおかわりをした」
「有悠米」を育てたIさん宛てに、8人の子どもたちのメッセージが、別紙に書かれていた。
「あまくてふっくらとした有悠米をもう一度食べたいです。これからも、お米作りをがんばって、いろいろな人を、笑顔にしてください」
「今度、私たちの学校にいらして、お米や農業について、いろいろ教えてもらえたら嬉しい」
各家庭に配られただろう3枚の「食教育だより」を、プリンターから取り出し、二軒となりのIさんの家に向かった。夕食前の時刻だったが、もう、門を出ると真っ暗、道を急いだ。
玄関先で受け取ったIさんは、ざっと目を通すと、少し照れていた。
「学校給食たべ歩き」を、朝日新聞に連載している吉原ひろこが、この道筋を作ったわけだが、我が家に招待しますという声にこたえて、栄養士のTさんが横浜からやってきた。
大阪の栄養士、Uさんも、彼女の夫と一緒に泊まりに来た。Uさんの活動も、子どもたちのためにという気持ちから、困難な道を切り開いていて、それは、Tさんも同じだ。
この国の未来に向かう子どもたちに、出来ること、良いことは何でもやる、という姿勢で生きている人が大勢いるのだ。その夜、来客全員、「有悠米」で餅つきをした。
2月には、餅の形にして、小学校に届けることになっている。
信州の、ある小学校に「給食たべ歩き」で行くことになった、吉原ひろこに同行した。その時の、教頭の話。「時には、学校を休みたくなるときがありますが、しかし給食を食べたいのでやってくるのですよ」。その小学校では、手作りの餃子のあと、デザートはなんと。サクランボの王様「佐藤錦」が二粒。調理員の女性は、気負うことなく、ごく普通に、作る過程を話してくれた。自信を持ってやっている人に、共通する穏やかさだ。

<時空を超えた旅>
2009/11/16

2009.11.16
<時空を超えた旅>      三代沢信寿
年明けに、{百人一首}の新しいデザインを思い立ち、それが完成すると、「万葉集」にも手を染め、平行して第二版の「百人一首」を作り始めた。
再度、「百人一首」に挑もうと思った背景には、表現する技術の拙さに気づいたこと、つまり技術の向上からきたものがある。創造するということは、行ったりきたり、試行錯誤の連続で、いつも感覚とスキルを、磨いておかなければならないと思っている。
夏の終わりに、「百人一首」の第二版が出来上がると、時を同じくして、松尾芭蕉の俳句に取り掛かった。そのきっかけはこうだ。
伊賀地域には、新鮮な野菜を販売する場所が、あちこちにある。
物だけが置かれているところ、生産者の名前が表記されているところ、作り手の顔写真が貼られているといった、そこまでは、やっているが、もはやその段階までは、全国的に同一レベルだ。
それ以上の際立った特色があれば、よそとの差異化が図れるし、また農業を、次の世代につなげるために役に立つのではないか?そのひとつとして、私は農業と文化の融合を考え、農作物と松尾芭蕉の俳句を結び付けてみようと思い立った。料理を作って胃袋に入れるのが基本だが、さらに、心に残る永続性のあるものとしての、コラボレーションだ。12月に展覧会をする。
芭蕉はこの伊賀上野で、今から一年前に生まれ、ここ、伊賀では、親しみを込めて、「芭蕉さん」と呼ばれている。
えっ と驚かれるだろうが、365日前ではなく、今から365年前。覚えやすいので一年前。
「百人一首」は、歌の世界、芭蕉が生まれる400年以上前に、藤原定家によって、また「万葉集」は、およそ、それから500年近くも前に、大伴家持によって編纂されている。
「百人一首」は、私の子供のころは、まだ正月の遊びとして命脈を保っていたが、いまや、テレビの映像で見て、すぐに忘れられる存在になってしまったようだ。
しかし、なにかきっかけがあれば、カルタの下の句が口から出る人、絵札を思い出す人などがいる。平安時代の、王朝人の雅な感性は、現代人の心の中に、静かに眠っているようだ。
また、「万葉集」の時代は、日本が、新しい国家を建設しようとして、大化の改新が行われ、文化的な大事業が次々と、推し進められた時期。
歌の中に、発展途上のみなぎるエネルギーがあり、そこが心惹かれるところだ。
「熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと月まてば 潮もかなひぬ いまはこぎ出でな」
額田王(ぬかたのおおきみ)の、この歌を詠むと、私は1400年の時空を越え、瀬戸内海に浮かぶ船の上にいる。
しかし、月見に来たわけではない。朝鮮半島の百済が、唐と新羅から侵略され、救援に出かけるその途上なのだ。武装した兵士の間に、戦に備えた彼女の姿を見ることができる。
「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」
崇徳院のこの歌を詠むと、讃岐へ配流される、無念の彼と旅を共にする。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も、又旅人也」
ここから始まった、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅も、「蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ」の、大垣での句で終わり。私は5ヶ月に及ぶ芭蕉さんとの旅で、足が痛くなった。少し休憩。
歌と俳句を自分の作品に取り込みながら、古の作者とともに、時空を超えた旅を楽しんでいる。

<修行の雨>
2009/09/13

2009.09.13
<修行の雨>       三代沢信寿
新聞社に勤めるEさんを、伊賀神戸の駅まで迎えにいくように頼まれた。
その日、夕刻からパーティーをすることになっていて、いつもは、買い物がてらHARUKOが迎えに行くのだが、準備のために、代わりに私が行くことになった。
たいてい、夕方迎えに行くのは、仕事の付き合いがあるHARUKOで、皆で飲みすぎた翌朝、同じ駅まで送るのは、朝に強い私という、パターンを、もう何回も繰り返していた。
伊賀神戸の駅で、道の向かい側で待っていると、聞いていた時刻より10分ほど遅れて、Eさんらしい人が、改札を抜け、窓口で何か話している様子だった。
やがて、駅舎を出て、タクシー乗り場のほうに歩き始めた。それまで、私は、ぼんやりと彼女の姿を追っていたが、そうか、やっぱりEさんだということがわかって、あわてて車の窓から手を振った。
何回も会っているのに、確かにEさんだ、とわかるまでに時間がかかったのは、長身の彼女が、短パンをはいていたからだ。
いつもは、ジーンズ姿なので、白いスラリとした脚線が、新鮮な錯覚をもたらしたのだろう。
助手席に座った彼女に、ベランダ菜園で作っているという、プチトマトの近況を、聞いたのがまずかった。
プチトマトが、思うように生育しないという、HARUKO から聞いていた話しが繰り返され、今、もっとも力を入れている、金山時味噌の仕込みへと、話は続いた。
14〜5分かかる我が家までに、私は、「百人一首」をひもとく間に、古の人と、親しく交信している様子を話したかった。車の中は二人きりだ。ところが、駐車場に車が滑り込んでも、金山時味噌は終わりそうに無い。そればかりか、私も信州味噌の作り方を、話す羽目になってしまった。
夕方、農園を経営している、東京農大出身のTさんが、一週間実習をしてきた、母校の後輩を連れてやってきた。農薬を使わない野菜を作り、困難な道を歩いている彼女の、我々は応援団だ。
少し遅れて、K夫妻も参加して、にぎやかに時は過ぎていった。これは一ヶ月前の話だ。
その時、Eさんが、Tさんの農場で、修行のために農業体験をしてみたいと話し、先日、二泊三日でそれが実現、我が家で、シメのパーティーが、また行われた。
Eさんは、農業体験修行の前に、高野山で精進修行をしてきたと言う話だった。
ひごろ、ヨガをやっているということだから、どうやら修行が好きらしい。
8月のアタマに集金にきた新聞屋が、7月にこれだけ雨が降ったから、あと一ヶ月は降らなくていい、と言ったその通りになって、もう一ヶ月も雨が降らない。
両隣の家のおばあちゃんも、毎日野菜に水をやっている。私も「マイペット」の冬瓜やバジル、朝顔に朝夕、水をやっている。地面はカラカラだ。
Eさんは、Tさんのところの農園実習で、一番気になったことがあるという。
雨が降らないから、水道の水を、大量に野菜にまいているということ、水道代が恐ろしいと言っていたようだ。心配しながら、帰って行った。
Eさんだけではなく、我々も、毎日の天気予報が気がかりだ。
雨よ降れ!雨よ降れ!
その、願いがかなってか、昨夜かなりの雨が降った。Eさんの一番の心配事が、天に届いたのかもしれない。誰にでも言いたい、ありがとう!
庭に並べた、赤い椅子に、水がこぼれんばかりに、光っている。雨上がりの日差しがまぶしい。

<泣き面にハチ>
2009/09/07

2009.09.07
<泣き面にハチ> 三代沢信寿
二階の天井裏に、ミツバチが住み着いている。
昨日も洗面所の窓から覗くと、壁土の隙間から、たくさんのミツバチが出入りしていた。
そのミツバチを、つかまえようと、黄色スズメバチが数匹、攻撃を加えながら、空中でホバーリングしている。
ミツバチは、自分の仕事である、蜜を集めに行かなければならない。
スズメバチの攻撃をかわして、一目散に残り少なくなった花に向かう。
しかし、運悪くスズメバチの餌となって、運ばれていくものもある。
きっと、スズメバチの巣では、この高たんぱく質の餌を、心待ちにしている幼虫がいるのだろう。
花の蜜を集めるより、効率のいいこの方法は、大きいスズメバチにとっても、危険がともなう。
ミツバチは、時には集団で反撃していくのだ。
いつまでも、見ているわけに行かない。私も仕事が待っているし、羽音が近づいてきたので、窓を閉めた。
夜になると、電灯の明かりに引き寄せられて、室内にはいってくるやつがいる。
どこから入ってくるのか、まったくわからない。
先日、二階の廊下で追い払っていたら、左目近くを刺された。鏡の前で、やつが残していった、針を抜いたが、痛みと共に、顔が腫れてきた。いい男が台無しだ?
やっと、それが直った頃、冷蔵庫の近くで、ミツバチを踏んでしまった。
しまった!と思ったとたんに、足を引き寄せると、持ち主の、体を離れた針は、リモートコントロールされたように、独自の使命を持って、私の指の皮に食い込んでいく。
今度は、右足を引きずるはめになった。
前回もそうだが、彼らは、一本しかない針で、命をかけて刺してくる。
見上げたものだ!と、ほめてやりたい。しかし、痛みをこらえているので、腹の中はどうしてくれようかと、仕返しの気持ちでいっぱいだ。
ほめる気持ちがあるから、出て行ってもらう方策を10年も繰り返してきたのに、効果がなかったのは、当たり前だと言われそうだ。
しかし、今度ばかりは許さないぞ!
と固く心に決めてから、もう一週間、足の痛みがすっかり消えてしまった。
すると、痛みを少し我慢すれば、いいのではないか、世界的に、ミツバチの数が減っているということだし、という気持ちが、トドメの「ミツバチ追い出し作戦」の前に、ぼんやりと姿をあらわしてくる。
二度あることは三度。急がなければ!

<名付け親>
2009/08/18

2009.08.18
<名付け親>          三代沢信寿
大和古寺大観の第二巻「当麻寺」 岩波書店 を持って、二階から降りてきた。
さてどこで、この分厚い本を開こうかと考えて、座敷を見渡した。
本棚に立ててあったように畳の上に置くと、薄っすら積もったほこりが目に付いた。濡れたタオルを取りに行き、それでぬぐった。久しぶりに開く、時の経過がタオルの先にくっついている。
ダンボールの外箱から中身を引き出し、クリーム色のケースから本体を取り出し、ページをめくると、古本の匂いが倒れこむように、鼻にきた。
この本を手に入れた30年前の匂いだけではなく、「当麻寺」創建当時の、8世紀の匂いも含まれているかのようだ。
本は、東塔、西塔の、三重の塔の建築写真から始まり、本堂、金堂へと続き、想像の「当麻寺境内」へと私は誘われ、散策を楽しんでいた。
そして写真を眺め、ページを変えるうちに「当麻曼荼羅図」が現れ、それについての解説を読みはじめると、意外な人物の名前が登場し、それからは時空を超えた歴史の世界へ、私は漂うことになった。
「百人一首」の選定を、「藤原定家」に依頼した、「宇都宮入道」の名前が出てきたのだ。
鎌倉幕府に謀反の嫌疑をかけられ、一族郎党60余名で出家した、その張本人、「宇都宮頼綱」は、京に上って「法然上人」に師事し、法然亡き後は、その弟子、「証空上人」に師事した。
13世紀、鎌倉時代に、「当麻曼荼羅」を世の中に広く知らしめた、功労者「証空上人」と共に
「宇都宮実相房蓮生」、「宇都宮入道」も、力を尽くしたことが書かれている。
それのみならず、調べてみると、我が家から7〜8キロ先の地点にある、春日神社の領地をめぐって、興福寺の僧侶から、「宇都宮入道」が土地横領の疑いがあると、幕府に訴状が出されたとの記録が残っているとのこと。この近くまで、彼と関係があったとは、まさに驚き!
今年の初め、三代沢版「百人一首」を完成したのをきっかけに、万葉集に取り掛かり、それと共に、古の人たちと交信するようになった。その中で、一番興味のある人、それが「宇都宮入道」なのだ。
疲れたので、本を閉じて庭に出た。
先日、名前をつけた朝顔を見ると、今朝水をやったというのに、今にも枯れそうな風情。
演技としか思えない
薄紫色(ウスムラサキ)には「ウスム」、薄桃色(ウスモモ)には「ウスモ」。
口に出して、「ウスム」「ウスモ」と言ってみると、どこか違う国の言語のように聞こえてくる。
カタクチイワシの子ども、つまり食べる煮干と、ピーマンやシシトーガラシを、麺つゆで煮たものが好物だ。無くなる寸前に、追い討ちをかけるように、また新しく作るので、この食品には「追い討ち」と名づけた。
火曜日には、豆腐屋が、厚揚げも届けてくれるので、「追い討ち」に、三角に切った厚揚げを加える。待っていた厚揚げを入れると「待ち伏せ」と名前が変わる。
スズメのための餌場に、このごろスズメがやってこない。避暑にいったのかもしれない。
代わりに、キジバトがやってくる。こちらの名前はポーカー。ワンペアーで来る時もあるし、スリーカードでやってくるときもある。キジバトの数で、トランプを楽しんでいる。

梅雨明けの庭
2009/08/06

2009.08.06
<梅雨明けの庭>         三代沢信寿
空梅雨と言われていた6月が過ぎ、もう雨はいらないというほど降った7月。
8月の声をきいて、やっと梅雨が明けた。
雨の晴れ間をぬって、花を摘んでいた、ハーブのマロー(ウスベニアオイ)。
晴天の時は、一日に50個も60個も花をつけていた。
その頃までで、摘み取った花の数は、2000個はくだらなかっただろう。
雨が続いて、乾燥が追いつかず、7月の半ばで、採取をあきらめた。
いまや3000個に近づいているはずだ。
次々と摘み取るから、花が咲くと思っていたが、摘まなくとも、雨が降ろうとも、
そんなことにはおかまいなしに、自分の任務を遂行するために、開花していく。
それが、ウスベニアオイの生活史なのだろう。
鉢植えにした朝顔二株。
彫刻のように立ててある鉄枠に、右巻きと左巻きに蔓を巻きつけた。
下から見て、時計回りが、朝顔の好みだと聞いていたので、片方に意地悪をしてみた。
案の定、時計回りは、素直に蔓を絡ませていく。その反対に鉄枠に巻きつけたほうは、なんだか身をよじっているような、ぎこちない様子。
途中にある、横棒のところで、向きを変えて、時計回りに、巻きかたを変えた。
ほっとしているのは、朝顔だけではない。
夜、窓から流れ込んでくる風に、稲の香りが含まれている。
パソコンの画面に、小さな蛾が飛んできた。
それを追いかけて、飛び蜘蛛(ハエトリグモ)が画面の左端にあらわれ、狙い定めて、蛾に襲い掛かった。
蛾は、間一髪でかわし、窓を目がけて飛んでいく。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -